罰則条項 「酷い目に合いました。」 自慢のおデコにバッテン印の紙絆創膏とガーゼ。意識しないでも指先がそこへ向かうので、相当に気になっている様子で響也の苦笑を買う。 「僕的には、大した事がなくて良かったんじゃないかと思うけど?」 「そりゃ、そうですけどね。」 チラと送った視線の先にはソファーに座る成歩堂親子。 現場へ行くよりも早く事務所へ戻って来た王泥喜とみぬきを、響也達は出迎える形になった。帰ってくるなり、みぬきは成歩堂の元へと直行。地面に這い蹲って証拠を探していた王泥喜と何処かのオバチャンとの接触事故が、どんなに大変だったかを切 入口で置き去りになった王泥喜に話掛けたのが響也で、ふたりは扉の前で立ち話をする格好になっている。 「その人、前方不注意で王泥喜さんを轢いたのに逆に怒り出すんですよ。すっごい声で、みぬき、難聴になるかと思っちゃった。」 「そうかあ、赤いスーツでも目立たなかったのか。じゃあもっとヒラヒラした服に着替えた方がいいかもなぁ。」 はっはっと笑う成歩堂にも、ビビルバーで衣裳借りて来ると決意表明をするみぬきにも、王泥喜に対する同情心は欠片も見えない。尻に車輪が当たり、前につんのめって地面に激突した以外に怪我が無かったのは幸いだろうと響也は思う。手術、入院のプロセスで同じ扱いでは、余りにも容赦がなさ過ぎる。 「傷になってるのかい?」 「いえ、ちょっと赤くなってる程度で平気です。」 自分くらいは心配してやろうと声を掛けると、王泥喜は苦笑しながら絆創膏の端を剥がした。覗き込んでみれば、盛り上がった額の中心が赤くなっている。 「痛いのかい?」 「打ち身なんで少しは。でも唾をつけとけば治る範囲の怪我ですよ。」 「ふうん。」 目の前の艶々した額と、王泥喜の発言が響也の悪戯心を刺激した。軽い仕草で、額に口付けを落とす。唇が触れた感覚に、王泥喜が悲鳴を上げて後ずさった。 「なっ、何するんですか、牙琉検事!」 額に片手をあて、真っ赤になって抗議する王泥喜が面白くてついつい、ほくそ笑んでしまう。 「唾でもつけてあげようと思って。」 「異議あり!!切手を舐める人種と口聞かない発言したくせに、矛盾してます!」 「此処は法廷じゃないから、異議は認めないよ。」 フフンと鼻を鳴らせば、頬は赤くしたまま抗議の瞳を向けてくる。しかし、王泥喜が再度の異議を唱えるよりも成歩堂の声が早かった。 「王泥喜くん、そろそろ資料作りにかからないと時間が来ちゃうんじゃないのかな?」 響也の肩越しに時計を眺めて、王泥喜はあと声を上げた。バサバサと身体から埃を落とすように叩いてから、ソファーで眺めている少女に声を張った。 「みぬきちゃん、鞄!書類の入った俺の鞄は!?」 「こっちですよ。王泥喜さんも落ち着きがないですねぇ。」 バサリと背中から現れた人形の手に、王泥喜の鞄が握られている。此処が舞台ならば拍手喝采が起こるのだろうが、起こった事と言えば、いつの間にぃいいと叫んだ王泥喜がみぬきの手から鞄を引ったくった事だけ。不満そうな少女の顔に、憤慨している王泥喜の顔に、響也は眩しいものを見るように目を眇める。 先程の恐れが何処から来たものだったのか、響也はやっと気が付いていた。 失う事に馴れていなかったせいだ。何かを無くす事。そういう事に対して、まるでアレルギー反応の用に頭が、いや身体全体が拒絶していたのだ。 単純に怖がっていると言っても良い。 頭ではわかっていたそれが、現実として突き付けられて初めて、失う怖さを知った。 それほどに自分は、この場所を気に入っているのか。 ひとつの結論は、響也にもうひとつの事実を伝えていた。それは響也に苦笑をもたらし、しかし王泥喜は誤解した様子で怒りの表情と共に指を突き付いつまでも笑わないで下さい! 成歩堂さんだって、あのパンツ事件の時も事故にあってたんですから、俺ばかり馬鹿にしないで下さいよ。」 「…へぇ。知らなかったよ。」 そう、あの時は彼に『成歩堂龍一』などに、なんの興味も無かった。いや、それは嘘だ。知ろうとしなかったが正しい。気になる存在。それは七年前からずっとそうだったけれど、具体的に何かを思う事など無かったのだ。 「パパったら車に跳ね飛ばされても捻挫しかしなかったんですよ。」 過ぎてしまった出来事を何事のなかったように語る二人と対象的に、響也の動向は不安定さを増している。 「…検事?」 一瞬奇妙に眉を寄せて王泥喜が左手の腕輪を見る。そして、怪訝そうな表情をして響也を呼んだ。咄嗟に拙いと感づく。 王泥喜は相手の動揺をみぬくのが、法廷での常套手段だ。此処で、自分の動揺を追求されれば、隠す自信が無かった。 響也は王泥喜が何かを口にする前に、とびきりの笑顔を浮かべる。 「長居してしまったから僕はそろそろ仕事に帰るよ。」 ファンの娘にするように、片目を眇めてみせれば王泥喜は嫌そうに顔を顰め、みぬきは黄色い悲鳴を上げる。 「じゃあ。」 片手を上げて背中を向ければ、呼び止められることも無かったのでほっとする。 階段を降りようと脚を向けた先には、いつの間に事務所を出ていたのか、成歩堂の姿があった。 パーカーのポケットに両腕を突っ込んだまま、響也を見つめていた。 響也と視線を合わせた途端、彼の目が鋭さを増す。酷く苦い表情になったと思うと、有無を言わさず、階段の踊り場にひっぱり込まれる。 今、成歩堂を見たくは無かった。さっきまでの一連の出来事で、響也は決定的に悟ってしまったのだ。 自分は成歩堂龍一という男の存在を大切なものだと思っているのだと。彼のいる此処を居心地の良い場所だと認識していた事を。 それ故に、成歩堂が事故にあっていたという出来事に酷く揺さぶられた。 幾ら響也が必要だと感じているものでも、予期せぬ事態に巻き込まれればあっさりと失うのだと告げられた気がした。 そうして、ここまでの経緯がその結論を裏付けする。 「邪魔したね。これからは、お嬢さんへの言動は気を付けるようにするから。」 機嫌が宜しく為さそうに見える成歩堂に、早く開放して貰えるよう下手に出る。しかし、二の腕を掴んでいた成歩堂の指先は、緩むどころか強さを増した。 「…成歩堂さ…ん?」 酷く憤っているらしい彼の理由がわからず、響也は名を呼ぶ。返ってきたのは、理由ではなく、彼の顔だった。 何処か焦点のぼやけた黒い瞳が、自分の姿を映しこんで見開かれている。 腕が、のろのろと上げられ、こわごわと頬に触れてくる。 そのまま、手が、首にかけられ引き寄せられる勢いのままに、響也は成歩堂に接吻けられていた。 驚愕した響也は抗うことも出来ず、下唇を舐め上げてくる男をただ見つめた。接吻けの合間に漏れ出る熱い吐息を感じて、どくりと、響也の胸が騒ぐ。誘われるままに開いた唇の隙間を、押し広げ侵入してくる成歩堂の舌は直ぐに口腔を浸食していった。 貪るような成歩堂からの接吻けは、しかし響也自身の行動にすり替わっていた。 求めあっていた口唇から覗く舌が、いつしか激しく絡まりあい、もどかしげに互いを絡め合う。 差し出さした手は、成歩堂の首筋と肩とをさまよい、時にびくりと震えながらそれでも離さなかった。 状況や場所も厭わず青年を抱きしめる成歩堂の腕。応えるように響也のしがみついた手に力がこめられる。 しかし、はっと我に戻った響也の腕は、成歩堂を引き剥がした。 content/ next |